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ターンキー方式で建設された福島第一原発の問題 [東電核災害の検証]

 日本の原子力発電は、日本原電の敦賀原発と東京電力の福島第一原発1号機(沸騰型BWR)で本格的に始まります。それは、BWRメーカーのGE社からターンキー契約で購入した発電プラントです。

フルターンキー契約(ターンキー契約)とは? 独立行政法人 日本貿易保険
 「フルターンキー契約」とは、プラント輸出等において、設計から機器・資材・役務の調達、建設及び試運転までの全業務を単一のコントラクターが一括して 定額で、納期、保証、性能保証責任を負って請け負う契約で、プラントのキー(かぎ)を回しさえすれば稼働できる状態でオーナーに引き渡すことから、この名前が生まれました。『ターンキー契約』とも呼ばれます。貿易保険は、物損をてん補しないことが原則ですが、貿易一般保険では、「フルターンキー契約」については、『フルターンキー特約』を付すことにより、不可抗力条項によって以後の完工義務がなくなる場合を除いて、プラント等の引渡前に仕向地における戦争や革命、テロ行為を含む内乱により、プラント等の設備等に物損が生じ、契約の相手方に請求できない修理費などを『貨物について生じた損失』としててん補することができます。
http://nexi.go.jp/glossary/detail/002876.html

福島第一原発でおきた東電核災害を調査した国会事故調は、この契約形態の問題点を指摘しています。
第一部 事故は防げなっかたのか?の1.1.3の福島第一原発建設当初の耐震脆弱性のところです。

2)米国GE社製原発のターンキー契約における問題点
 福島第一原発1号機は、米国最大の重電機メーカーであるゼネラル・エレクトリック社(以下「GE社」という)が関発したBWRを、着工から運転開始までGE社に全責任を負わせる「ターンキー方式」で東電が契約(昭和41〈1966〉年12月8日)しかものである。 GE社が始めたこの方式は国際的に注目され、スペインのサンタマリア・デ・ガローニャ原発(以下「スペイン炉」という)を受注していた。ヒアリングこよれば、東電がGE社に決めた大きな理由は、これらの実績だけでなく、スペイン炉と同じ設計のものを採用すれば設計図や製造図面が活用できて安いという経済性もあったという。
20111001122149.jpg なお、「表1.1.1―1」にあるように、ブランド全般の設計業務はGE社と関係の深いEBASCO社が担当し、炉心関係、蒸気系統、タービンなどはGE社とGETSCO社が担当したが、日本のメーカーもほかの設備を分担した。
 東電原子力開発本部においてGE社との契約条件の策定と仕様の確定に当たった池亀亮氏(後に東電副社長、平成22〈2010〉年10月没)が記しているところによれば、ターンキー契約の
文書化作業は厳密に行われたが、後日さまざまなトラブルが生じた。大きな問題は、スペインの先行炉があり、それと同型であれば低価格ということで契約したのに、スペイン炉の建設が遅れて、福島1号機の方が先行したことである。スペインの経験を取り入れるはずが、あらゆるトラブルを福島が最初に経験して対処する羽目になった。
 また、当然のことながら耐震設計基準がスペイン用の原設計に比べて厳しいために、機器の支持構造物の補強が各所で必要になった。特に格納容器の中が大変で、もともと狭いMARK 1型格納容器(「2.2.5」参照)の中に多くの補強材を入れたため、空間の余裕がなくなり、運転開始後の作業に困難を生じ、無駄な時間と余計な披ばくが増大することになったという。これは、その後の補修・補強にも問題を生じたと考えられ、「1.1.5」で述べる耐震バックチェックの遅滞にも影響を与えた可能性かある。
 日本側の当時の耐震設計の仕様がGE社のパッケージ商品に適切に組み込まれたのかということが大きな問題だが、池亀氏が記すところは、GE社の設計には正しく入っておらず、建設中にその場しのぎで補強したことを示唆している。
 他の資料によれば、1~3号機の運転開始後、大小さまざまな初期トラブルがあったという。著者は、GE社の製品は米国での経験を生かして改善が図られ、商業プラントの域に達しているはずだと考えていたが、「予想外に次から次にトラブルが発生したのは驚きであった」と述べている。主なトラブルとして、燃料チャンネルボックスの損傷、燃料破損、配管の応力腐食割れ(SCC)などがあり、予測できなかった低サイクル熱疲労破壊(1~3号機の原子炉給水ノズル並びに制御捧駆動水戻りノズル)に関しては設計変更を余儀なくされた。 SCCは現在まで問題になっている(【参考資料1.1.6】参照)。また、MARK I型格納容器が深刻な問題を抱えていたのだが、それについては「2.2.5」で述べる。
 原発に関する目本の自主的な技術がほとんど皆無な中でGE仕製品を丸ごと導入したことが、その後改修を重ねたとはいえ、さまざまな形で本事故直前の耐震脆弱性として尾を引いた可能性がある。今後の大きな検討課題の一つと考えられる。

国会事故調 報告書

国会事故調 報告書

  • 作者: 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2012/09/11
  • メディア: 単行本


1号機はフルターンキーでした。2、3、4号機はターンキー契約ではありません。GEはターンキー契約受注を止めています。同じ設計なので、日立、東芝がGEと組んで設計建設をして、GEを先生役に技術導入・学習を図っています。約10年後に建設された福島第二原発では、日本で改良した型式マークⅡになっています。この設計の違いは、素人目にもわかります。非常用発電機では下図のようになっています。

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 原子炉の非常用ディーゼル発電機と変圧器などの電源装置では、タービン建屋などにある福島第一の発電機が冠水し、6号機の1系統を除き使用不能。原子炉建屋内の福島第二では、1号機の原子炉建屋が浸水したものの、機能が維持された。
 原子炉の残留熱を除去するための海水をくみ上げるポンプでは、設備がほぼむき出しの状態で置かれた福島第一のポンプがすべて運転不能になった。一方、ポンプ用の建屋内に置かれた福島第二では、1、2、4号機のポンプが運転不能となったものの、3号機は機能が保たれ、原子炉を冷却することが可能だった。
 両点では、とも福島第二と同じ設計となっている柏崎刈羽原発では、この結果を受けて説明資料を作成。柏崎刈羽は「気密性の高い原子炉建屋に設置」しているとし、福島第一との違いを際立たせている。

非常用発電機の地下設置

【 「私(佐野川好母・元原研理事)が言いたいことは,今回の福島第一原子力発電所の事故は,地震・津波は天災であるにしても、原発事故は明らかに人災であるということです.建設後40年近く経っていて,その間の原子力の技術開発で改善すべき点が多々あったにもかかわらず,必要な対策も講じないで放置されてきました.このことは,私が原子力研究所に在職していた時代にもわかっていたことですが,当時は誰も意見できない雰囲気でした.

 しかし,本当のことを貴兄(西村)にお伝えしたいと思いました.福島原発注設当時,日本の技術者は震度9,津波は10メートル以上を主張したにもかかわらず,認められなかったという事実があります.

 まず,チェルノプイリとスリーマイル島の原発が,同じくメルトダウンしながら、スリーマイル島のほうは外部への放射線漏れはほとんどありませんでしたが,これは,コンクリート製の分厚い格納容器のあるなしが明暗を分けたものです.この事故の事実を活かすことなく,使用済み燃料プールを原子炉格納容器の外に置いてスレート葺きの建屋の中に置いたことこそ改善すべきなのに,改修費がかかることを理由に無視したまま放置してきたのです.
 そもそも福島第一原子力発電所を建設する際.高さ35メートルあった崖を削ってしまいました,そこに原子炉を建て.非常用電源を地下室に設置しか結果,15メートルの津波で全電源喪失を招いたのです、つまり、日本の技術者には立派な技術と経験がありながら,残念ながらそれは活かされなかった.それを押しつぷした強大な力がありました」 】2013年1月の現代科学より抜粋、全文は追記に

「大津波は想定していなかった」/福島第一原発の設計者明かす/原子力資料情報室の記者会見で

 東京電力福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故に関して、NPO法人の原子力資料情報室は(2011年)3月16日夜、都内で記者会見を開いた。このなかで、同原発の設計を担当した元東芝の小倉志郎氏が「設計条件に(今回のような規模の)津波は想定されていなかった」と告白。日本の原発の「安全神話」がいかに虚構であったのかが明確になった。

 ●甘すぎた設計条件

 小倉氏は会見で、福島第一原発の第1~3号機と5~6号機の設計を担当し、主に災害時の消火システムを手がけたと自らを紹介。そのうえで、今回の大震災が「原発の設計条件をはるかに超えるもの。非常時に備えたシステムを多重に仕組んでいたのに、全く稼動していないことに驚いている」と語った。

 具体的には、設計当時に耐震基準を決めた際に「マグニチュード8.0以上の地震は起きないと言われた」と明かし、大津波についても「(設計条件に)与えられていなかった」と述べた。「その後、東京電力と東芝で大津波に耐えられる設備増強を検討したが、大丈夫との結論が出た。そのときの津波想定も今回の震災よりもはるかに小さかった」とも語った。

 ●地震立国を加味せず

 甘い設計が許された背景については、福島第一原発が日本で初期に建設されたことを挙げた。設計自体を米国原発メーカーのゼネラル・エレクトリック(GE)社に依存した状態で、「乱暴な言葉を使えば、国内の技術者は無知に近いレベルだった」と発言。「その後に東芝独自で設計した部分も、GE社の規格を踏襲してしまった」と語り、地震が多発する日本特有の条件がほとんど加味されていなかった事実を暴露した。

 会見は日本外国特派員協会で行なわれ、各国の報道機関の記者が参加。小倉氏の告白に対して、厳しい質問が投げかけられた。

 ●厳しい指摘相次ぐ

 米国人記者は「福島第一原発が建設される前の1960年にチリ地震(マグニチュード9.5)が起きていた。なぜ設計で考慮しなかったのか」と指摘。放射能漏れの原因は津波で核燃料を冷やすシステムが失われた点にあるとして、「システム装置を原子炉よりも海岸近くに置き、地上にさらしていたのは疑問。外国の原発では(水が低いところへ流れる性質を利用して)冷却水プールを原子炉よりも高い場所に置いているケースが多い。なぜ低いところに設けたのか」と批判した。

 小倉氏は現在、新潟県の柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える立場。しかし、記者の指摘に対しては「まったく同感」とうなだれた。
「連合通信・隔日版」(2011年3月17日付No.8438)より
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10834136699.html

東京電力で原発開発・推進の中心であった元副社長豊田氏は、事故後、NHKの(2011年9月のETV特集「原発事故への道程~置き去りにされた慎重論」の)担当者から設計図を見せられて、「知らなかった~。どうして、誰も気付かなかったんだろう~」と。津波による全電源喪失を引き起こした地下の非常用ディーゼル発電機の存在を事故が起こるまで知らなかったのです。その後、「ターンキーで少し任せっぱなしにした点はありましたね。それが、ディーゼルタービンの地下にあったことに、気付かなかった。わたしだけじゃなくって、誰も気が付かなかったというのも、どうかな・・・と思うんですけど、ともかく・・・」「任せっぱなしがよくなかった」とも発言しています。
出典・・ETV特集 http://v.youku.com/v_show/id_XMzA2NDY3NDYw.html

GEの責任割合は?

元東電副社長豊田氏は、66年5月11日の東電の正式発注の後に契約業務と並行してプラントレイアウトについてGEと検討を進めています。先行モデルのスペインのサンタマリア・デ・ガローニャ原発は内陸にあり、海岸に作るように変更が必要だからです。そして1966年12月の東電とGEの正式契約に立ち会っています。
 その契約は豊田氏によれば「ターンキー契約というのは建設から試運転まで全ての責任をメーカーが負い、受け取ったキーをひねるだけで運転できるという。」NHKは「ターン・キー契約は、一括契約の為、ポンプの変更などの、追加要求は受け付けてもらえません。」と解説を加えています。

 しかし、ターン・キー契約は「契約範囲の変更、スペックの変更、予期せぬ事象の発生、その他発注者側の事情による契約変更の場合は、然るべく価格調整なされる」つまり追加費用を出せばよい形態の契約です。出典 NHKの説明は間違っています。

  現に豊田氏は、「追加の要求を、こちら(日本側)が出したらねぇ、それこそ、ひどい、高い追加費用を(GE側は日本に)要求してきますよ」「向こう(GE側)に任せているから、それでやってくれてるであって、こちら(日本の方)が『これをこう変えろ!』っていうようなことをやったら、『(支払い代金を)追加しろ!』っていうことで、途端に高いものになっちゃうんだよね」(ETV特集)と証言しています。

 その追加費用は東電が負担できなかったのでしょうか。元GE原発部門幹部の証言では「日本の仕事は良いビジネスでした。日本人はとっても良い人たち。設計変更で契約にないコストが発生しても説明すれば払ってくれた。アメリカでは一旦契約を結ぶと規制の変更などでコストがかかっても払ってくれません。契約に入っていない変更はGEが支払うべきとされ、GEの原発ビジネス(フルターンキー)はアメリカでは赤字でした。しかし日本ではもうかったのです」
ETV特集「アメリカから見た福島原発事故」

 このように、東電は米国会社なら負担しない費用でさえ支払う鷹揚な、負担能力に余裕のある電力会社です。必要な設計変更の費用も負担できた事を表しています。またGEは、66年5月11日の東電の正式発注の1か月後には、新たなフルターンキー契約受注を廃止しました。

 つまり、東電が非常発電機などをより高い標高地に設置するプラントレイアウトとか、原子炉建屋に設置する福島第二のようなデザイン・設計変更を求め追加費用を負担すれば、GEは応じたことを示しています。要は交渉次第、東京電力の腹一つだったということです。
 また、5月以降の正式契約までのプラントレイアウト検討で、こうした発注要求をGEに出していれば、追加支払いは不要です。そうした事に東電が十分に注意を払っていない「過失」や誰でも気づくことを見逃した「重過失」を犯したのではないでしょうか?それを隠すためにターンキー契約を持ち出しているように思えます。

造成費用が最安値は、O.P.+10m(海面から約5m)

発電所敷地の高さにするかなど整地・敷地造成は、東京電力の施工範囲で、東京電力の指示でゼネコンが工事しています。
 福島第一原発の原子炉周辺の敷地は標高30ないし35mの台地でした。また「福島第一原発が立地する丘陵地は、地質年代の若い、柔らかい地層が30m以上あり、しっかりした基盤は海面下200mもの深さにあって、原発建設には本来適さない場所である。」(国会事故調報告書 66頁の注17)

東京電力の原子力本部で立地選定に当たった小林健三郎氏の「福島原子力発電所の計画に関する一考察」『土木施工』1971年7月によれば、
 「波浪および津波などに対する防災的な配慮とともに、原子炉および発電機建屋出入口の高さ、敷地造成費、基礎費、復水器冷却水の揚水電力料などがもっとも合理的で、しかも経済的となるように決定」
 「当地点付近の高極潮位は小名浜港においてO.P.+3.122m(チリ地震津波)であるので、潮位差を加えても防災面からの敷地地盤高はO.P.+4.000mで十分である。」
 「170m×460mの陸上部の敷地造成に必要な掘削費、O.P.-4mの基礎地盤までの建物基礎掘削費および勾配1/20、幅員9.5mの進入道路の掘削費の合計額が最経済的となる敷地地盤高を求めた結果は図-8の通りとなり、この結果からもO.P.+10m付近が最低値となることが明らかとなった。
以上の結果により、陸上部の敷地地盤高をO.P.+10mと決定し、埋立部のポンプ室付近地盤高はO.P.+4.0mとした。」

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@BB45_Colorado
更に、図8にみられるように、工費が極小となる敷地地盤高さを10mと算定している。なお、敷地高さを15mとした場合の工費増は一億円強と読み取れる。女川では東北電力が伝承なども考慮して敷地高さを増し、それによって破壊を免れたことはよく知られている。7:15 - 2013年8月31日

@BB45_Colorado
福島第一原子力発電所1号炉の建設費は400億円弱であり、敷地を5m嵩上げするのに要する費用は、その0,3%程度であったことは注目に値する。7:21 - 2013年8月31日

@BB45_Colorado
45年程昔に1億円ちょい、今の貨幣価値では15~20億円程度のお金をケチったことで、福島第一原子力発電所は爆発したと考えることが出来る。7:23 - 2013年8月31日

参照・・http://iwamin12.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/index.html

一銭でも一厘でも安く

豊田正敏氏は1957年11月に新設された日本原子力発電に東電から出向し、東海発電所(コールダーホール改良型)の設計から建設まで携わって実際の原子炉導入の実務作業を担い、経験を積み重ねた東電の原発エリートです。

東海発電所(コールダーホール改良型)は、当初から火力発電、石炭火力や重油専焼火力よりも高い電気と見込まれていました。計画段階の昭和32年の試算では、設備利用率80%とフル稼働でも1割から2割、40銭から80銭高い発電原価、キロワット当たり4円40銭~4円75銭でした。
出典・・昭和33年:1958年原子力委員会月報第1号
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V03/N01/195805V03N01.HTML

 本家の英国では、コールダーホール炉は本来原爆材料のプルトニウム生産炉です。それを発電もできるように改装した炉がコールダーホール改良型です。それで英国では発電後の使用済核燃料に出来るプルトニウムを政府が核兵器の原料として買い上げていました。その代金、プルトニウム・クレジットを発電原価から割り引いていたのです。それは日本では、表立ってできません。プルトニウム・クレジットをゼロ円として試算すると石炭火力や重油専焼火力よりも高い結果になりました。

 1953年8月12日のソ連初の水爆?核融合兵器実験の後に、米国原子力委員会(AEC)は平和利用を推進するリーダーとしてのアメリカを宣伝する心理情報戦を展開するとしました。そのアイテムとして原子力発電の開発を挙げ、それが、対ソ軍拡と同じように有意義であることを主張しました。その当時から原子力発電の経済性は化石燃料の火力発電に比べ有利でないので、政府と民間企業の共同事業として原子力発電を運営し、米連邦政府の補助金を支出して発電原価を下げる方針を出しています。
参照・・http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=16-03-01-02

英国炉はプルトニウム・クレジット、米国炉は連邦政府の補助金で化粧しないと、火力発電とも並んで立てないのです。プルトニウム・クレジットは日本ではありえない核兵器の原料に政府お買い上げ代金なので、露見したのです。

 東海発電所建設が始まると、想定外の追加設備投資が必要になりました、英国には地震がほぼありません。耐震性を高めた日本向け設計で始めたのですが、設計に穴が見つかり次々に追加設備投資が必要になりました。それで設備利用率80%とフル稼働でも、7円と試算されてます。火力発電は、中東から安価な原油が出てきて、4円から下がっていきます。発電原価の差が広がって倍近くなっていきます。

 そのうえ、東海発電所の商業用原発は、1966年7月の送電開始早々、原子炉の緊急停止しました。その後も様々なトラブルが相次ぎ、送電開始も修繕や点検に1億~6億円もの費用が必要となりました。設備利用率≒稼働率は下がり放しです。(45年程昔に1億円は、今の貨幣価値では15~20億円程度)豊田氏が米国でGEとプラントレイアウトについてGEと検討を進めていた頃には、日本初の商業用原発の発電原価は鰻上りに上がっていきます。豊田氏は「”経済性”-コストを安くしないと他の電源に太刀打ちできないので、(元官僚の島村に「豊田さんはいつも頭の隅に”経済性”を置いていた」と言われ)いつも頭の真ん中に置いていた。」(ETV)

元東電副社長豊田氏は1966年の東電とGEの契約に立ち会っています。GEが初めて量産型として開発したマークIで、外側の格納容器が小型なため建設費が安いというのがセールスポイントです。豊田氏は「決め手は経済性。スペインから発注を受けているのと同じものにすれは、設計図や他のものも使いまわせるので安く出来ると。」「それでねぇ、40万キロで400億円って言うんだから、結構安かったです。安く出来る、かなり安く出来る。安いだけが、経済性だけが決め手だったんです。それでGE社に決まったんです。」

元原研理事の佐野川好母氏がいう「日本の技術者には立派な技術と経験がありながら,残念ながらそれは活かされなかった.それを押しつぷした強大な力」の一つは、この「”経済性”-コストを安くしないと他の電源に太刀打ちできない」ことに発していたのでは?

また東京電力の「技術者には立派な技術と経験」があったのでしょうか?

畳の上の水練

東京電力は、1955年11月に社長室に原子力発電課を新設。1956年6月、東電はメーカーの東芝グループ三社(東芝、石川島播磨重工、石川島芝浦タービン)と日立と組み「東電原子力発電共同研究会」(TAP)という共同研究組織を立ち上げます。TAPは1962年3月まで続けられ、関わった人数は約900名だったそうです。1957年に原子力発電課から英米に留学生を送り、原子力発電のため特別に組まれたカリキュラムの聴講、訓練をうけたり、機密解除された資料を収集してます。

003j1.kayano-uede.jpg 原子炉理論の復習、最適化設計、安全評価など、入札に備えて研究の深化させたそうです。1964年12月に本店に原子力発電準備委員会、現地に福島調査所が設置された際には「実際に建設を進めるための研究はほとんど終わっていたし、必要な資料もほとんど揃っていた」という。(『とうでん : 東京電力社報』第508巻、東京電力、1993年11月、 2-11頁。)

その成果はどうでしょうか?

国会事故調の報告では次のような事例が出ています。

思い込み
東電原子力開発本部においてGE社との契約条件の策定と仕様の確定に当たった池亀亮氏は「GE社の製品は米国での経験を生かして改善が図られ、商業プラントの域に達しているはずだと考えていたが、『予想外に次から次にトラブルが発生したのは驚きであった』と述べている。」
 資料を読み込み理解してはいるが、実際に起きてるトラブルは知らないから「商業プラントの域に達しているはず」という思い込み研究でした。この思い込みは、東電に限ったものではなく、国の原子力予算も「軽水炉は確立された技術で、売り込みも来てるんだから、お金を出さなくてもいいだろう」と再処理や高速増殖炉などに費やされています。

図面が読めない
 「日本側の当時の耐震設計の仕様がGE社のパッケージ商品に適切に組み込まれたのかということが大きな問題だが、池亀氏が記すところは、GE社の設計には正しく入っておらず、建設中にその場しのぎで補強したことを示唆している。」
 マグニチュード8.0以上の地震は起きないという耐震基準で行っていますが、それすらも満たしていないことを図面からは読み取れない、チェックできない水準、泥縄で現場対処する水準です。その対処策で大丈夫だったのでしょうか?東電核災害で福島第一原発1号機は、地震で配管が損傷したのではと指摘されてます。

お任せの無責任体質
 より巨視的なプラントレイアウトではどうでしょうか。非常用ディーゼル発電機の全停止、全電源喪失を引き起こした発電機の地下配置を、建設から半世紀過ぎた東電核災害後に設計図を見て「知らなかった~。どうして、誰も気付かなかったんだろう~」「それが、ディーゼルタービンの地下にあったことに、気付かなかった。わたし(元東電副社長の豊田正敏)だけじゃなくって、誰も気が付かなかったというのも、どうかな・・・と思うんですけど、ともかく・・・」
 「ターンキーで少し任せっぱなしにした点はありましたね。」と省みてますが、これは池亀氏と同じ、思い込みで原子力発電導入を行ったのです。木川田一隆社長の「実証的経験を積み、問題点の解明を図りつつ、原子力の導入を図る」は、お題目でしかありませんでした。

 原発、原子炉でトラブルが発生し圧力容器内の高温水蒸気や気体が漏れ出る事故が起こった場合には、外側に包み込む格納容器のない原子炉、ソ連・ロシアのチェルノブイリ事故で悪名高い RBMKより、格納容器のある原子炉、BWRやPWRの方が安全性が高い。また格納容器の容積が大きいほど、閉じ込めておける量が大きい=耐圧度がおおきいのです。むろん、自ずから設計限界はあるが、少なくともより小さな格納容器より、より大型の格納容器のほうが、緊急時に格納容器に加わる負荷が、より少なくなります。

 万々が一のことを考えて格納容器を大きくする、それは、格納容器の建設費用が増えるという事です。GEが初めて量産型として開発したBWRのマークI型は、圧力抑制プールを設けて外側の格納容器を小型にして建設費が安い、加圧型PWRより安いというのがセールスポイントです。しかし、2011年の東電核災害前の時点で世界には商業用原子炉は375基ありましたが、BWRは73基約20%です。日本には73基中の28基がありました。世界には格納容器なしのPBMKは8基残っています。PWRは267基約71%です。世界レベルでは通用しなかったのです。

 当時の日本は「商業プラントの域に達しているはず」という思い込みの研究水準だから間違った選択をしたのかも知れません。しかし「東電原子力発電共同研究会」(TAP)を構成した東電、東芝グループ三社(東芝、石川島播磨重工、石川島芝浦タービン)と日立が、その後に改良し開発したBWRの炉型では、経済性向上で出力当りの格納容器体積が小さくなっています。安全性が落ちています。本質的には理解していなかったのではないでしょうか。

自主開発してたら

戦前の日本は、湯川秀樹博士に代表されるように核物理学の水準は高かった。だからこそ、米国の核技術、英国の原子炉の仕組みがすぐに判る人々がいたし、わかる人を養成できました。日本原子力研究所理事長を務めた菊池正士氏(元・大阪帝国大学理学部教授)は、核物理の「サイクロトロンはわかってもエネルギーをとりだして使う発電装置のエンジニアリングの評価はできない。 原子力をすこしはわかる物理屋でも、エンジニアリングには対応できない」と言っていました。そのエンジニアリングは、結果的に米国の劣化コピーになっています。

そのエンジニアリング、工学も、時間をかけてじっくりと研究と開発を進めれば、よかったのかも知れません。1951年7月に学術会議で原子力研究の再開を訴えた伏見康治氏は「私(伏見)はもともと、アメリカは核兵器を大事に極秘裏にしまって置いて、平和目的にしろ、核燃料を出すようなことは絶対にするはずはないと考えていた。だからこそ、日本はアメリカから比較的独立にわが道を進むことができると考えていて、さればこそ原子力推進の提案もしてみたのであった。」と述べています。

原子力技術、原子炉技術を自主開発していたら、どうなっていたでしょうか?

2013年1月の現代科学より 
出典・・http://jimnishimura.jp/tech_soc/chem_today1301/1.pdf
http://jimnishimura.jp/tech_soc/chem_today1301/2.pdf

【 歴史には底流がある。それは決して目に見えるわけではないが,ときに一部が表面に出ることがある,それは関係者しか知らず,歴史の闇に消える.原子力も例外ではない.
 1955年のジュネーブ会議で始まった日本の原子力開発には二つの流れがあった.一つは東京大学工学部教授を核にした米国からの技術導入派.もう一つは素粒子物理学者を中心とした自主開発派である.しかし 当時の政治情勢から「自主、民主、公開」の三原則を基本にした学術会議の自主開発路線が公式には採用され,そのための目的で日本原子力研究所(以下,原研)が創設された。1956年のことである.

 その第1期生に,東京大学工学部からは,佐藤一男(電気),佐野川好母(機械) 鶴尾昭(放射線構造)ら,私の同期生の最優秀の5人が入所した私も原子力を本格的にやるつもりで,大学院では技術導入派の旗頭であった化学工学科の矢木 栄教授の研究室に入った、しかし,密かに自主開発派の旗頭である素粒子論の武谷三男立教大学教授の弟子になっていた.
 1959年,実用第1号炉として英国のコールダーホール炉の安全審査が始まった。黒鉛レンガを積上げたもので、明らかに地震国日本には不向きで危険なものであった.このときの原子力委員会安全審査部会には,学術会議を代表して自主開発派で素粒子論の坂田昌一名古屋大学教授が入り,委員長は矢木教授であった.

 同年10月末,私が矢木教授の部屋で文献を調べていると,突然,坂田教授か訪ねてきて、「矢木先生、私は安全審査委員を辞めさせていただきます」と宣言した.11月の審査部会の最終会議を直前にして,矢木教授の議事運営に決定的な不満があっての発言に聞こえた.矢木教授には相当の打撃にみえた.
 しかし,それから2,3日後,日本学術会議会長,原子力委員の兼重寛九郎東京大学教授から突然の来訪の通知かあり,矢木教授は極度に緊張していた.兼重先生はすべての東大教授から恐れられていた人で,呼びつけることはあっても自分から訪ねてくることはない人だったからである.その兼重教授が矢木教授に言ったのは一言,「先生のお考え通りになさいまし」であった.そして1週間後、コールダーホール炉は「安全」との審査結果が発表された.矢本教授は国会に呼び出され,安全性の判断と情報公開について神近市子議員らから徹底的に追及された.坂田教授は辞任の理由を説明した.

 この間の経緯は朝日新聞に徹底的に叩かれた,これは矢木教授にはひどく応えだようで,飲めなかった酒を飲むようになった.そのためか,「定年(1967年)後には,原研の所長を」という誘いを「適当な理由で断った|とよく話していた その結果,所長になったのが,原子核実験で知られる菊地正士 大阪大学教授であった.

 このころ国政レベルでは,自主開発派と技術導入派の正面衝突が表面化した,技術導入派の狙いは、自主開発派の拠点である原研の取潰しであった。具体的には、技術導入に従順な研究者だけを集めて第二原研をつくり,そこに開発の仕事を移して原研を形骸化することであった.第二原研には動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が選ばれた.この政策を実行したのが菊地所長であった.これに対し、大部分が自主開発派であった原研の研究者は,職員組合に結集して抵抗した.
 このとき労組委員長をしたのが鶴尾昭であったが この二つの路線の対決といっても,実質は菊地所長と鶴尾委員長の対決である.まだ若い鶴尾にとって,数学者・菊地大麓の息子で国際的著名人,しかも「原子力は超安全」と信じる菊地所長との一歩も引けない対決の毎日は,耐えがたいストレスの連続であったろう、そのためか急性胃がんを発症し、わずか3ヵ月で亡くなった,35歳であった.

 この原研「改革」で勤燃に移ったのは,安定な出世を望む人と従順な人50~60人で,大部分は原研に残った.あるいは残された.特に第1期生はほとんど残った.その一人,佐野川は発電炉ではない小型で超安全な高温ガス試験研究炉を設計・運営したあと,原研理事も務めたが,その彼が,いままで決して言えなかった歴史の真実を書き残しておきたいと私に手紙をくれた.同意を得て以下に転載する.


 「私(佐野川)が言いたいことは,今回の福島第一原子力発電所の事故は,地震・津波は天災であるにしても、原発事故は明らかに人災であるということです.建設後40年近く経っていて,その間の原子力の技術開発で改善すべき点が多々あったにもかかわらず,必要な対策も講じないで放置されてきました.このことは,私が原子力研究所に在職していた時代にもわかっていたことですが,当時は誰も意見できない雰囲気でした.
 しかし,本当のことを貴兄(西村)にお伝えしたいと思いました.福島原発注設当時,日本の技術者は震度9,津波は10メートル以上を主張したにもかかわらず,認められなかったという事実があります.
 まず,チェルノプイリとスリーマイル島の原発が,同じくメルトダウンしながら、スリーマイル島のほうは外部への放射線漏れはほとんどありませんでしたが,これは,コンクリート製の分厚い格納容器のあるなしが明暗を分けたものです.この事故の事実を活かすことなく,使用済み燃料プールを原子炉格納容器の外に置いてスレート葺きの建屋の中に置いたことこそ改善すべきなのに,改修費がかかることを理由に無視したまま放置してきたのです.
 そもそも福島第一原子力発電所を建設する際.高さ35メートルあった崖を削ってしまいました,そこに原子炉を建て.非常用電源を地下室に設置しか結果,15メートルの津波で全電源喪失を招いたのです、つまり、日本の技術者には立派な技術と経験がありながら,残念ながらそれは活かされなかった.それを押しつぷした強大な力がありました」 】

参照・・西村肇ホームページ http://jimnishimura.jp/


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その名前は既に登録されています

誰もコメントしないのに書き続けるその精神には感服いたしました。
私も西村様の記事を流し読みさせていただきまして、みかんの皮を剥くことを諦めずに食べることの大切さを学びました。


嘘はよくないですよ。
by その名前は既に登録されています (2015-01-18 20:44) 

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